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【映画】誰も守ってくれない
2010-11-25


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『誰も守ってくれない』(2009年・監督:君塚良一)

本作を観終えてから、ずっと映画とテレビドラマの違いを考えている。映画とは何か、テレビドラマとは何か?
これは三谷幸喜氏の近年作品を観るときにもいつも思い起される、居心地の悪い違和感だ。簡単に言うと、この作品は映画ではなくもいいのではないか? テレビドラマでもいいのではないか? という疑念だ。
同じような違和感が、本作の冒頭からラストまで、ずっとワタシの脳裏にこびりついて離れなかった…。

幼い姉妹の殺害事件で未成年の容疑者が逮捕される。マスコミ報道と世間の耳目にさらされる容疑者の家族を守るために、疑問を持ちながらもその保護に奮闘する刑事たち。容疑者の妹(志田未来)を担当した刑事(佐藤浩一)は、ホテルや自宅アパート、友人のマンションを転々とするが…。

まずその違和感は、リアリティ欠如なシーンが次々に繰り出されることからやってきた。
容疑者の妹(中学生)の写真を撮るために、カーチェイスまでして追い回すマスコミ。しかし、どう考えても“使える”はずのない写真のために、こんな大立ち回りをするだろうか? そして、警察も含めてこんな道行法無視のカーチェイスを行うだろうか?
ワタシは当初、『お葬式』(伊丹十三監督)のそれを模した演出として見ていたのだが、スリリングな展開の中にそこはかないユーモアを持ち込み、見事な導入効果をつくりあげた伊丹監督のそれとは似ても似つかない陳腐なシーンに見えてしまった。

ほかにも、家族をバラバラに保護し、しかも中学生の女子を単独で連れます刑事。さらには、“愛人”にその保護を任せるなど、「ありえな〜い」の連続。
いくらショックを受けているいえ、まだ息子が自白もせず、しかも妹がいるなかで、母親が安易にああした行動に走るだろうか?
妹のボーイフレンドの“逆ギレ”も、あそこまで針が逆に振れるだろうか?
…と、とにかく疑問の嵐。
ワタシにとって決定的だったのは、保護にあたる刑事が最期までこの妹を「お前」呼ばわりしていたこと。そのリアリティのなさに、せっかくの“感動作”がしっかり鼻白んでしまった。

しかし結局、映画はファンタジーだ。リアリティを持たせないことで成立し、成功している映画はゴマンとある。
じつは本作に対するワタシの違和感は、このリアリティ欠乏症だけではない。
それは、映像だ。
なぜ、本作に「映画」の醍醐味を感じないのか? なぜ、テレビドラマを観ているような(映像的な)せせこましさを感じてしまうのか?
もちろんそれを君塚監督がテレビ出身ということだけで、粉砕してしまうのは簡単だが、やはりその映像/スクリーンの使い方が、「映画」のそれと決定的に違う感触を持つ。

3:4比のテレビ画面で見ることを前提につくられるテレビドラマでは、登場人物たちは基本的に「バストショット」で撮られる。しかし、大画面の映画では違う。「ロングショット」で撮られることが多く、その分役者は全身を使った演技力が求められ、またその背景にはさまざまな要素が盛り込まれる。
したがって、「映画の1コマ1コマが一枚の写真のように美しい」と評された黒澤明監督を始め、日本映画の名匠たちは本当にワンカット、ワンカットの映像にこだわったという。

海外ロケを含めた大がかかりな製作としながら、テレビ出身の若松節朗監督作『沈まぬ太陽』

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